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約9分
01 坂出駅
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いってらっしゃい!
約9分 -
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約2分
02 姫塚
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崇徳上皇が雲井御所に滞在中,綾高遠の娘である綾の局が身の回りの世話をしていました。やがて,綾の局と上皇の間に皇子と皇女が誕生しましたが,皇女は幼くして亡くなります。
長命寺跡に残る姫塚が、その皇女の墓であるとされています。
約2分 -
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約6分
03 雲井御所
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崇徳上皇が讃岐の地に配流された当時,まだ上皇の御所ができておらず,国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の館を仮の御所に使用したと云われています。
上皇は,京の都とは違って草深い田舎での生活ゆえに淋しく,都を恋しく思い,『ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて』と詠みました。この歌から,この仮の御所を雲井御所と呼ぶようになったと云われています。
約6分 -
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約6分
04 松山の津
約6分 -
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約7分
05 青海神社
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青海神社から山を登っていき、白峯山頂の稚児ヶ岳で火葬に付されました。火葬のとき、紫色の煙 がたなびいて、かたまりとなって谷底を動きませんでした。そこで、その地に社が建てられました。 それがふもとにある煙の宮と呼ばれる青海神社です。
約7分 -
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約10分
06 高家神社(たかやじんじゃ)
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往古ここに高家首の一族が居住し、遠祖の天道根命を奉斎して氏神とした里人には森の宮とも奉称され 貞観9年従五位下を奉られています。 崇徳上皇葬送の途中、高家神社(高屋町)までくると、にわかに風雨が起こったので、葬送の列は いったん棺を大きい石の上に置きました。するとその石に血がしたたり落ちました。棺を置いた石の 台は、今も境内に安置されており、高家神社のことを「血の宮」とも呼んでいます。
約10分 -
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約22分
07 崇徳上皇白峯御陵/白峯寺(すとくてんのう しらみねごりょう/しらみねじ)
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五色台白峰の山中に、四国八十八ヶ所第八十一番札所、綾松山洞林院白峯寺はあります。1406年(応栄 13)に書かれた白峯縁起によると、創建はおよそ次のように説明されています。平安時代初期(815 年)弘法大師が修行のためにこの白峰に登って、宝珠を埋めて閼伽井(あかい)を掘られました。ついで、弘法大師の姪の子である智証大師が、この山の白峰大権現の化身である老翁とともに、瀬戸の海上に輝き異光を放っていた流木を引き上げて千手観音像を刻んで本尊として、伽藍を建立し ました。こうして白峯寺が開かれたといいます。白峯寺は、平安時代の真言宗や天台宗の寺院が修行を目的として山の中にお堂を建てたことや、平安時代末に流行した模様のついた屋根瓦が出土したことなどから、平安時代にはすでに建立されていたと考えられます。さらに、1164年、(長寛2) には、崇徳上皇の菩提をとむらうために頓證寺(とんしょうじ)が白峯寺の一角に建立されました。
約22分 -
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約10分
08 鼓岡神社(つづみがおかじんじゃ)
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鼓岡には讃留霊王(さるれいおう)の墓と云われている古墳があり、その前面には崇徳上皇を祀る 社殿があります。神社の傍らに建つ擬古堂(ぎこどう)は、崇徳上皇の行在所址にその御殿、木ノ 丸殿を模して大正2年に建てられたものです。
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内裏泉
鼓岡神社のすぐ北にあり,崇徳上皇が木ノ丸殿に住んでいた際に使用した井戸といわれています。この井戸は内裏泉と呼ばれ,この水を使うと目が悪くなるといわれ,地元の人も使わず大切にしていたそうです。
地形上も谷筋に位置しているためか,大旱魃にも枯れなかったといわれています。 -
盌塚
鼓岡神社の北方で,菊塚の北東の位置にある畑の中に,「盌塚」と刻まれた自然石が残っており,崇徳上皇の使っていた食器を埋めた場所だといわれています。
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菊塚
崇徳上皇は綾の局との間に生まれた皇子を顕末(あきすえ)と名付け,菊の紋をつけて綾の局の父,綾高遠に賜り,綾家の跡継ぎにしたといわれています。この皇子の墓が,鼓岡神社の北にあり,菊塚と呼ばれています。
正方形の檀の上に石を積み上げた塚で,現在は民家の庭先にあります。
約10分 -
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約1分
09 白峰宮(しろみねぐう)
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上皇のご遺体が八十場の清水で冷やされてから,白峰山の稚児ヶ嶽にて荼毘に付されるまで,毎夜この辺りが光で照らされていたことから「明の宮」とも呼ばれています。崇徳上皇を祀るこの神社は,周辺の人々からは「天皇さん」の名称で親しまれています。
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衛士坊坂
約1分 -
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約9分
10 弥蘇場の清水(やそばのしみず)
約9分 -
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11 坂出駅